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【ウィリアム・ライオンズ】ジャガーの創始者:ミスター・ジャガー

若かりし日のミスター・ジャガー

美しく官能的とも表現されるジャガーのDNA。創始者ウィリアム・ライオンズの哲学の結晶とも言えるそのDNAは、彼の死後30年以上が経った今もモデルの一台一台に受け継がれていると言われています。ポルシェやフェラーリの社名に創業者の名前が付けられているのとは異なり、ジャガーは敏捷性とパワー、自然の造形美を具現化したネコ科の動物であるジャガーをその社名に冠しています。エレガントさ、優雅さ、品位、控えめであることを善としたライオンズの美意識が、他のハイエンド・ブランドと一線を画していることの象徴のようです。

ミスター・ジャガーと呼ばれたウィリアム・ライオンズは、1901年9月4日イギリスのブラックプールに生まれました。父はミュージシャンで、ピアノの販売と修理を行う店を持っていました。母の名はミニー・バークラフト。ライオンズは父の仕事を手伝って、ピアノの修理を手掛けた時期もありました。晩年、ピアノの修理をしたものの、あまり上手くは行かなかったことを二番目の娘メアリーが明かしています。

学生時代の彼は、本人の弁によると「ごく普通の生徒」でした。幼い頃から機械に興味を抱き、特に自転車が好きで、友達の自転車を修理することもありました。しかし本当に彼の心をとらえていたのはオートバイとそのエンジンで、ハーレー・ダビッドソンに憧れを抱いていました。1911年、10才のライオンズはある時、学校の同級生の兄アーノルド・ブレーケルからトライアンフのバイクを譲り受けます。10才のライオンズにはバイクの運転は早過ぎたため、分解し改良を加えることに没頭します。その後、彼は出来上がったバイクを売却し利益を得ることに成功しました。ライオンズには、エンジニアリングの才能が備わっていたことを物語るエピソードと言えるでしょう。

1917年にアーノルドハウスという私立校を卒業後、ビッカーズ・シッピングヤードと呼ばれる造船所で見習いとして働く道が用意されていましたが、ライオンズは乗り気ではありませんでした。それを知った父が、マンチェスターのゴートンにあるクロスレー・モーターズのマネージングディレクターに求人がないか問い合わせをします。結果、ライオンズは同社で見習いをすることになりました。ライオンズの希望は自動車製造を経験することでしたが、当時クロスレー・モーターズは救急車と荷馬車の製造に注力していました。がっかりした彼はブラックプールに戻り、当時ブラックプールの自動車ディーラーのリーディングカンパニーであった後のブラウン・アンド・メラリーで仕事を見つけます。ここで彼は望みどおり自動車についてーどうやって作られ、どう動くかーさらに重要なことに、見込み客にいかに売り込むか、その方法を学びました。

第一次世界大戦後の1919年、18才の年にロンドンで開催されたモーターショーで、ブラウン・アンド・メラリーの出展を手伝います。この頃までには、バイクについての知識に負けない程度に自動車についての知識を身に付けていました。その後、上司が変わり思うような仕事を任せられなくなったことに不満を持ち、一度は父のピアノ修理の仕事を手伝いますが、やがて自動車業界に戻ることを決意します。

運命の出会い

運命の出会いはこの後に起こります。ライオンズの隣に住んでいたのが、20才近く年上のウィリアム・ウォルムズリー(1892-1961)でした。ウォルムズリーはバイクマニアで、自宅のガレージでアルミパネル製のバイクのサイドカーを製作販売していました。八角流線形と尖った先端を組み合わせた、デザインの美しいそのサイドカーに夢中になったライオンズは自分用に一台購入します。ウォルムズリーのサイドカー人気は高まり、広告を出すなどのマーケティングをほとんどしていないにもかかわらず、オーダーが増え続けます。ウォルムズリー自身はそれで満足していましたが、効果的なマーケティングを行えば大きなビジネスになることが明らかだと信じたライオンズは、ウォルムズリーを説得します。説得は上手くいかないように見えましたが、やがて父の進言を受け入れたウォルムズリーとライオンズは1922年、ライオンズ21才の誕生日に500ポンドずつを出し合い、また双方の両親の経済的な援助を受けスワロー・サイドカー・カンパニーを誕生させます。

ライオンズの長く成功に満ちたキャリアは、スワロー・サイドカー・カンパニーのサイドカー人気とともに始まりました。他社製品と比べて圧倒的なデザインの美しさを誇ったサイドカーは著しい人気を集めます。サイドカー製作販売で成功を収めた二人は次に、オースティン社のエンジンとシャーシをベースにしたスタイリッシュなコンパクト・ツーシータの製作を始めることにしました。当時ほとんどのメーカーが製造する車のデザインは極めてベーシックなものでした。対する二人のウィリアムが作るスポーツカーはその優美なデザインで人気を集め、すぐにサルーンタイプも追加されました。高まる需要に応えるため、1928年には自動車産業の中心地コベントレーに拠点を移します。ライオンズは常に製造手法の改善方法を考え続け、週単位の製造可能台数は従来の12台から50台にまで増加しました。

ジャガー社の始まり

1931年はジャガー社にとって本当の意味でのスタートと言えるかも知れません。ルビー・オーウェン社のシャーシ、スタンダード・モーターカンパニー社のエンジンをベースに同社初の自動車、クーペ・SS1の製造を開始。SS1は独創的で卓越したセンスを誇り、同時に低価格を実現していたため、瞬く間に評判は高まり評論家やマニアも大絶賛を浴びせました。SS1に続いて発売されたSS2もまたSS1に劣らない成功を収めたため利益は順調に伸び続け、そのことがウォルムズリーを満足させました。一方のライオンズは利益を元手により高いパフォーマンスの出るモデルの製作を意図していました。ここで二人が目指す方向性の違いが決定的となり、結果的にウォルムズリーは会社を去ることになりました。

実業家として、またスタイリストとしての自分の卓越した才能を理解していたライオンズは同時に、彼が優秀なエンジニアを必要としていることも理解していました。ウォルムズリーが去った後、才能と情熱にあふれる人材を集めることに力を尽くしたのは、このような冷静な自己分析によるものです。世界第二次大戦前、1936年に発表されたSS100は、英国史に残る最も美しいモデルとされています。

戦後から叙爵まで

戦後、ライオンズが目標としたのは、100馬力を越すラグジュアリー・サルーンの製造でした。3.5Lエンジンを搭載したマーク4ではこの目標に届かず、1948年発表のマーク5ではシャーシとボディを新たに開発し、マーク4と同じエンジンと独立したサスペンションを採用しましたが、これでも目標達成とはなりませんでした。マーク5の次に開発されたのは1948年のモーターショーに向けて開発されたXKエンジンを積んだツーシータ・スポーツカーです。200台限定生産のこのモデルでついに120馬力を実現。ライオンズの夢が叶った初の量産車は1950年発売のマーク7・サルーンで、最高出力は101馬力を達成しました。

1950年代はジャガー社が公式にレースに参加していた重要な時代となりました。当時レース参加は安価な広告媒体として位置づけられていましたが、ライオンズはレース参加、特にル・マンでの成功と名声が会社の売り上げに貢献することを確信し、同時にレースでの勝利に疑いを持つこともありませんでした。ここでライオンズに次ぐジャガー社のデザイナーと言われる航空機デザイナー、マルコム・セイヤーが登場します。彼は空気力学の原理を応用し、印象的なデザインのジャガーCタイプ、Dタイプ、Eタイプを誕生させます。ライオンズの見込みどおり、Cタイプは1951年と1953年、またDタイプは1955年にル・マンを征します。しかし1955年のル・マンでの勝利はライオンズにとって別の意味で忘れられないものとなります。ライオンズにはジョーンという息子が一人いましたが、彼はル・マン会場へ向かう道中、自動車事故で亡くなったのです。この翌年ジャガー社はレースへの参加取り止めを発表します。そのニュースを耳にしたマニアたちは限定生産されたDタイプを買い求めプライベートレースに出場、それぞれ華々しい結果を残しました。

一人息子を自動車事故で亡くすという悲劇に見舞われたライオンズでしたが、その翌年には栄光に満ちた彼の人生でも最高の栄誉となる出来事を経験します。エリザベス女王がコベントリーを訪問した際、イギリスの自動車産業への貢献を称えて同国最高の栄誉称号である、ナイト爵を授かったのです。これ以降ライオンズは、サー・ウィリアム・ライオンズとの呼称を許されることになりました。

ミスター・ジャガーの晩年

ライオンズのマネージング手法はある意味独裁的とも呼べるものだったようです。ウィリアム・ヘインズがデザインしたCタイプ、Dタイプ、Eタイプ、XJ-S以外のモデルに関する最終決定権は、1972年にライオンズがリタイアするまで、どんなささいなことでも全てライオンズが握っていました。また1985年の死の直前までコンサルタントとして開発に携わり、1975年発売のXJS、1986年発売のXJ40のデザインにも参加したと言われています。そしてあまり知られていませんが、ライオンズは全てのモデルの発表前には必ず自宅にプロトタイプを持ってこさせ、レディー・ライオンズこと妻グレタに感想を求めていました。ジャガーを代表するエンジニア、ウォルター・ハッサンが振り返ったところによると、初めこそ近寄りがたかったものの、スタッフの意見を聞いてくれる親しみやすい人物でもあったようです。

1922年、21才の誕生日にウィリアム・ウォルムズリーと共にスワロー・サイドカー・カンパニーを設立してからの50年間で、バイク用の小さなサイドカー製作会社を世界を代表するラグジュラリーカー・メーカーに成長させたライオンズ。リタイア後はグレタと共にゴルフや旅行、ガーデニング、またショーに出展するためのサフォーク種と呼ばれる羊や乳牛の飼育を楽しみました。

出典:https://www.jaguarlandrover.com/

参考
Sir William Lyons | Automotive Hall of Fame
William Lyons | Jaguar Heritage Trust
There’s a Lyon Behind Every Jaguar The Story of Sir William Lyons | The Jag-lovers Web
Sir William Lyons Crowning Glory | Jaguar Land Rover

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