knowledge

【ジャガー・Dタイプ】1950年代ジャガーを代表するレーシング・マシン

ジャガー・Dタイプの概要

ル・マンでの優勝を目指してデザインされたジャガー・DタイプのDは「支配」を意味するDominanceの頭文字を表します。「支配」が示す通り、1955年からの3年間、連続でル・マンを征しました。1950年代のジャガーを代表するレーシング・カーであると言って間違いないでしょう。

1954年から1957年にかけて製造されたDタイプは、当初合計100台の生産が予定されていました。しかしジャガー社は1955年を最後にル・マンへの参加を取り止めたため、結果的には75台のみが製造販売されました。製造途中だった残りの25台は、後述の通り一般道を走るためのジャガー・XKSSとして製造されることになったのです。

1960年代のジャガー・Dタイプは3,000-5,000米ドル(現在の価値で約280万円-450万円)で取引されていました。50年以上が経った2016年のオークションでは、1955年モデルが19,800,000米ドル、約21億円以上で売買され、実に500倍以上の価値を持つに至りました。

1955年のル・マン

ジャガー社はレーシングのDNAを受け継いでいます。それゆえ革新的とも言われたジャガー・Dタイプには大きな期待が寄せられていました。しかしル・マンデビューの年、1954年には惜しくも期待された結果はもたらされませんでした。ジャガーチームのマシンは燃料フィルターのトラブルにより燃料が不足し、この対応に時間が取られたため、記録は2位に終わりました。この時のドライバーは、前年Cタイプで優勝の座を勝ち取ったダンカン・ハミルトとトニー・ロルトです。辛くも目標達成とはなりませんでしたが、最高速度に関しては1位のフェラーリに勝ることが証明され、エンジニアたちにとっての慰めとなりました。

ジャガー・Dタイプは先代のジャガー・Cタイプがベースになっていますが、数々の変更を受け1955年モデルで270hpを記録しています。デザインの面でも革命とも言うべき変化がありました。一つにはCタイプで採用されたチューブラーフレームが、マグネシウム合金のモノコックボディに取って代わられたことです。軽量でより強度の高いモノコックボディは、エンジンを溶接するためのサブフレームを必要としました。この手法は当時としては最先端の技術であり、現在のレースカーにも採用されています。

ジャガー・Dタイプにはまた、飛行機の技術が大きく影響しています。ボディのモノコック構造は第二次世界大戦中に開発された戦闘機から着想を得たものです。さらに流動的な形状の燃料タンクは飛行機に使用されていたものであり、ダンロップのデイスクブレーキも飛行機で先に採用されていました。しかし、航空界の影響を受けているのが一目瞭然なのは、何と言ってもそのデザインでしょう。ドライバーの頭部後方にフィンが立ち上がり、まるで翼のない飛行体と呼びたくなる特徴的なデザインは、マルコム・セイヤーの手によるものです。セイヤーは大学で航空学と自動車のエンジニアリングを学び、第二次世界大戦中はブリストル・エアロプレーン・カンパニーで戦闘機の改良のために力を尽くし、戦後ジャガーに入社したという経緯を持ちます。マルコム・セイヤーは航空力学を知り尽くしていました。

ジャガー・Dタイプはマルコム・セイヤーが空洞実験を重ねるにつれ洗練され、高速での安定性を求めて特徴的なテイル・フィンがプラスされます。車体のフロント部分を小型化することにより空気抵抗を大幅に減少することに成功しましたが、小型化したフロントスペースに3.4Lエンジンが収まらないという問題が発生。セイヤーはこの問題を、エンジンの角度を調整し、ボンネットのバルジと呼ばれるふくらみを作るとことで解決しました。

1955年の焦点をル・マン優勝に据えたジャガー。マルコム・セイヤー率いるエンジニアチームは航空力学の原理をさらに高度に応用することに努め、ロングノーズのスタイルに結実します。ロングノーズとなったモデルは7.5インチ(約19cm)全長が長く、進化したデザインは空気抵抗を最小化することに貢献しました。

ジャガー・Dタイプは1955年、狙い通りル・マンでの優勝を果たします。ドライバーはマイク・ホーソンとアイバー・ビューブ。アイバー・ビューブは2年後、1957年のル・マン優勝ドライバーでもありました。ジャガー・Dタイプのエンジンは1957年、ジャガー・Cタイプから引き継いだ直列6気筒の排気量を3.4Lから3.8Lに拡大。しかしその後1958年にル・マンのレギュレーションが変更され、最大エンジン排気量が引き下げられたため、許容限度の3.0Lにまで縮小しました。

1955年のル・マンにはそうそうたる顔ぶれが揃っていました。メルセデスチームからは英国史上最高のドライバーといわれるスターリング・モスが参戦、フェラーリは強豪ぞろい、ジャガーからは英国人初のF1チャンピオンに輝いたマイク・ホーソンが出場。スタート前の会場は、各チームのマシンが競い合い緊張感が漂いました。レーススタート後、最初のピットインを終え、トップを走っていたジャガーがレーンに戻った直後に史上最悪の事故が発生します。メルセデスのマシンが追突事故を起こし観客席のそばで炎上。エンジンを含む大小のパーツが観客席に飛び散り83名が死亡、180人が重体、多数がケガをする大惨事となりました。トップを走っていたメルセデスは全チーム棄権を発表、結果的に2位を走っていたジャガーのマイク・ホーソン、アイバー・ビューブ組が優勝となりました。メルセデスはこの事故を機にモータースポーツ界から引き上げることになります。ジャガー社も同じく、オフィシャル・チームとしてのル・マン参戦はこの年を最後に撤退することを表明しました。さらにこの年、ジャガーの最高経営責任者ウィリアム・ライオンズ氏は一人息子のジョーンを一般道での自動車事故で失っています。

1956年、1957年のル・マンはジャガー・Dタイプが連勝。これによりジャガー・Dタイプは3年連続でル・マン優勝の記録を作りました。ただジャガー社が技術的なサポートを提供したものの、1956年からはあくまでもプライベートチームとしての参戦でした。1956年は1位、4位、6位、1957年はジャガー・Dタイプの独占状態と言える結果で、5位のフェラーリ以外、6位までを全てジャガー・Dタイプが占めました。

ジャガー・XKSSモデル

ジャガーは1956年にレースからの撤退を発表しましたが、その時点で未完成だったDタイプ25台がXKSSモデルに変更されることになりました。ベースはレーシングカーそのものでしたが、布製のルーフや、レースカーでは省略されていた助手席、フロントガラスが追加されアメリカに向けてスポーツカーとして生まれ変わりました。ところがジャガーのブラウンズ・レーン工場で火災が起こり25台中、9台が損なわれます。火災で工場の大半が燃えてしまい、必要な道具が焼失したため、XKSSモデルの製造は中止となりました。従ってXKSSのオリジナルモデルは16台しか存在しないこととなり、その希少性のため現在では20億円以上で売買されています。当時、アメリカの人気俳優で映画「栄光のル・マン」に主演し、レーシングドライバーでもあったスティーブ・マックイーンが所有していたことで知られます。

60年後の2016年3月、ジャガー・ランドローバー社のジャガー・クラシック部門は失われた9台の製作を発表。同年11月に当時の設計書に忠実に制作したニュー・オリジナルとしてロサンゼルスのピーターセン自動車博物館で公開しました。図面が失われている部分は現代の技術を使用してデジタル・イメージを再現。それをもとにリベット留めのアルミニウムボディの制作、内装のスティッチなどがすべて手作業で行われ、一台の制作に約60人月が費やされたと言われています。

ジャガー・Dタイプのスペック詳細

エンジン:3,442cc直列6気筒DOHC
最高出力:250 hp / 6,000 rpm
最大トルク:242 ft-lb / 4,000rpm
最高速度: 261km / h
0−160km/h加速:12.1秒
ボディサイズ:全長 3,912mm、 全幅 1,670mm、 全高 1,041mm
車両重量: 864kg
駆動方式:FR
トランスミッション:4速MT
乗車定員:2人
新車時車両価格:ー

ジャガーDタイプ
引用:wikipedia

Classcaの新着情報をお知らせします